ブログを書き続けるモチベになっている申し訳程度の根拠

18年前。高校1年生になった年に初めてケータイを持った。折り畳み式のガラケーで、今でも忘れないauのW11Hという機種だ。

通信料がちょうど従量制から定額制に変わった革命的な時代だった。

それまではパケット通信という通信方式において[インターネット使用量に応じて際限なく課金されていく]システムだったことから必然的に生まれた言葉が"パケ死"だ。

これはパケット通信を使いすぎてとんでもない額の請求が来たときの絶望的な状況のことを指す言葉で、ネット上には嘘か真か10万円だとか100万円の請求書を撮影した写真が散見された。

そういう時代背景もあって、4000円ちょっとの定額でインターネットが使い放題になるという夢のようなプランが登場したことを告げるテレビコマーシャルはただただ衝撃だった。

まさに新時代の幕開けと呼ぶに相応しい大事件に胸を高鳴らせた。

そしていよいよ高校入学の直前というタイミングで両親に初めてのケータイを買ってもらった。もちろんインターネット定額プランだ。

それからはというと狂ったようにインターネットを開きに開いた。

エロサイトはもちろんだが、一番ハマっていたのが掲示板だった。

掲示板といってもかつての2ちゃんねるのような大規模なものというよりは、小規模なコミュニティとしての掲示板に魅力を感じていた。

それまでケータイもパソコンもない、周りにいる人たちが全てという生活だったのが、いきなり全国の見知らぬ人たちと言葉のやり取りが交わせるようになったことは当時の私には刺激的だった。

その延長として手を出したのがメルマガ配信で、当時は今でこそ考えられないが、ブログ感覚で個人が配信するという文化がそこそこ盛り上がっていた。

自分が送ったメールが登録してくれた人たちに直接届く。それを受信した人は配信者に個人的な返信をすることが出来る。

正直このシステムは魅力的だし火付け役さえいれば今後どこかで再びブームがきてもおかしくないと思っているが、現代では動画投稿やライブ配信というコミュニケーションツールとしても完全上位互換といえるものが蔓延っている。やっぱり無理ですすいませんでした。

話を戻すが、メルマガを始めたのは高校2年生の春頃だった。

残り20分だったから
高校生男の日記みたいなシンプルなタイトルだったと思う。

コンセプトはただただ受け狙いでネタや文章を書いて配信するというものだ。

残り15分で日付が変わるためメルマガに関する詳しい話はまた今度しようと思う。

結果から言うとそれが最終的に150人くらいの読者が付いてそれなりに人気が出たことで自分の文章が好きになったと思うし、それが今ブログを書くモチベに微かに貢献している。

もう一つは数ヶ月前から友達づてに大学時代のサークルの同期に褒められたことを知ったことだ。



これはサークル員全員にメールを送ることが出来るメーリングリストというメルマガに似たようなツールを、ちょっとした役職のような立場を私的利用していたときの文章を褒められたものをスクショで送ってくれたのだが、10年以上前のことだったため嬉しかったしモチベ上がったしていうか時間ねぇ!あぁ時間ねぇ!毎日投稿はきちぃ!このライブ感を残すために敢えて推敲はしない。

とりあえずこれは嬉しかった。
だから頑張る。まだ我ながら全然面白い文章書けてないけど、これから必ず書けるようにする。

赤ちゃんの笑顔は何故魅力的なのか

今月で息子が産まれて5ヶ月目になった。

 

私のことをどういう人物だと認識してるのかまでは定かではないが、朝起きたときや仕事から帰ったときに、目が合うなり全力ニコニコスマイルで反応してくれることが多くなってきた。

 

そんな日々の中でふと、当たり前のことに気付く。

 

息子の笑顔を見たときに必ずこちらも大げさな程に笑顔になっているのだ。

 

何故か。

 

赤ちゃん相手には会話というコミュニケーションの手段が使えないことから、笑顔には笑顔で返すしかないという部分もあるかもしれない。

 

だが一番は、私に会えて嬉しいだとか楽しいと思ってくれている笑顔だと確信出来るから、ということだろう。

 

赤ちゃんはシンプルだ。

嘘もつかなければ愛想笑いもしない。

 

それが大人になるにつれて、意識するしないに関わらず、対人コミュニケーションにおいて演技を強制される。

 

笑顔一つとってもそうだろう。

 

だからこそ、赤ちゃんの心からの笑顔というものが極端なまでに魅力的に映るのだろうなと思う。

 

もっともこんな捻くれた理屈っぽい考えなど馬鹿馬鹿しく思えるほどに、赤ちゃんの笑顔はシンプルに物理的にかわいいし魅力的だ。

ブログ書きたくないの詩

書きたくない

書きたくない

 

どうして365日なの

どうして半年じゃダメなの

 

わからない

So わからない

 

Spotifyだって無料期間は3ヶ月

そこから先は有料なのに

どうして365日なの

 

メロンパンナ

ジェロムレバンナが

サバンナの雨季が

一堂に会し私をニヤリと嘲笑う

 

努力 未来 はぁ 急に損した

努力 未来 はぁ 急に損した

 

ベルギーの公民館で3泊してみたけれど

それは So 雲を掴むような話

だから幻の4泊目に賭けてみたいんだ

 

まるでプロの水切りのよう

なかなか着地出来ずに水面(みなも)を叩き続けている

 

書きたくない

Yes.Cake take nihgt.

 

気づけばサバンナは乾季へ

 

書きたくない

Yes.Cake take nihgt.

 

水を求めて彷徨う獣(けだもの)

 

書きたくない

Yes.Cake take nihgt.

 

知は力なり

されど

かずきはえなり

 

まだ見ぬ未来を求めるシマウマ

角取りゃ勝ちだと思ってたオセロ

 

今一度言うよ

 

書きたくない

一番好きなエヴァの名言



「辛いことを知ってる人間の方がそれだけ人に優しく出来る。それは弱さとは違うからな」

これは新世紀エヴァンゲリオンという作品の加持リョウジというキャラクターのセリフだ。

人は生きているだけで幾度となく辛い経験を強いられるし、何のために生きているのかわからなくことさえある。

だからこそ、そういったネガティブな精神状態に陥ってしまったときに、状況に応じて心の拠り所となるような言葉を常に心の中に準備しておきたいと思っているが、私にとってはこの冒頭のセリフがまさにそれにあたる。

他人から嫌なことを言われたり、理不尽な目に遭わされることもある。

そのときに生まれたマイナスのエネルギーは、どうしてもやり返すだとか恨んだりする方に向けたくなるものだ。

だが、それを反面教師として利用し、今度は自分自身が他人に同じようなことをしてしまわない人間になるためのプラスのエネルギーに変換することが出来るのなら、当然その方が良いに決まっている。

そう思えたときに

「辛いことを知ってる人間の方がそれだけ人に優しく出来る。それは弱さとは違うからな」

このセリフのぱっと見では脈絡がわかりづらい"弱さとは違う"という部分が持つ優しさが染みるのである。

ハースストーン婚までの流れ



ハースストーンがきっかけで結婚したという報告をトゥイッターで目にしたことがある人は少なくないだろう。

実は私もその一人で、ハースストーン婚である。

2年前の7月。

まだツイッチでそこそこの頻度でハースストーンの配信をしてたときのたまに見てくれてた視聴者に何故かDMをしたのがキッカケで、一緒に通話しながらハースストーンをプレイしたりして仲良くなり、当時住んでいた福岡と三重を行き来するようになった。

だが交通費が一度会うだけで3万近くかかるなど経済的負担が大きすぎたため、1年前の9月に私が福岡から三重に引っ越す形で同棲することになった。

そして翌月の10月末には子どもを授かり、今年の2月に婚姻届を提出した。

これはざっくり書いてるから目まぐるしく展開していったように見えなくもないが、実際に目まぐるしいものだった。

これが私のハースストーン婚までの物凄く大まかな流れだ。

ハースストーン婚もそうだが、他のオンラインゲームでも知り合った人と結婚したという事例が散見されるし、今ではすっかり珍しいことではなくなってしまった。

私がスーファミや白黒のゲームボーイで遊んでた頃からすると考えられないような凄い時代になったのだなとゲームファンとして感慨深く思う。

対戦相手とマッチングするゲームだと思いきや、実は結婚相手ともマッチング出来るデジタルカードゲームハースストーン。

今後も何故かマッチングアプリとしての側面を発揮することで、ハースストーン婚の報告を増やしていってくれることに期待している。

知らないタクシーの運転手からパーキング代を借りた話②



一気に50万もの大金を失ったことにより、遊んで暮らす夢のような暮らしは終幕となった。

働かなくては。

まず初めにやったことは生活費の確保である。

食事はもちろんのこと、このままでは11月分の家賃や光熱費も払えない。

そこで前の職場の先輩に「北斗無双で増やそうとしたら減ったので10万貸して下さい」と電話で事情を説明するとあっさり貸してくれることになったので、大分県まで車で1時間ほど走らせて取りに行った。

金を受け取った後ファミレスのジョイフルで飯を奢ってくれたが、食う飯を選べない極貧生活と化していたため過去一美味いジョイフルだった。

次は仕事探しだ。

漢検2級とAT限定普通免許と底辺大学中退以外の資格が無かったので、テキトーにその辺にあった工場に転がり込んで働くことにした。

そして迎えた12月。

11月の半ば過ぎから働き出したため、給料は親戚に金持ちが多い中学生のお年玉ほどしかなかったが、先輩に借りた金の慣性がまだ効いていたため何とか凌ぐことが出来た。

翌1月末。

給料が入り全ての支払いを済ませた私はパチ屋に凱旋した。

異変に気付いたのは2月に入ってすぐ、パチンコで適度に遊んでノーマネーになったときのことだった。

「あれ?車検今月の16日までじゃね?」

藤井聡太じゃない俺でも"詰めろ"が見えた瞬間だった。

私は車通勤で職場までは15kmはある。

公共交通機関も直通していない。

この車検、何としても必ず通さなければならない。心持ちだけは自身の進退を賭け債権回収を誓う半沢直樹さながらであった。

そこで私は早速市役所に相談した。

目当ては緊急小口資金という名の10万円貸付け制度だ。

が、審査を受けさせてすらもらえず、とある生協に行くように促された。そこで相談すればローンを組ませてもらえるかもしれないということだった。

私は早速その生協に連絡して約束を取り付けた。

当日。家から20kmほど車を走らせて最寄り駅のすぐ側のパーキングに車を停めて生協へ。

結論から言うとローンを組ませてもらえることになった。車の整備会社にも話を付けてもらい段取りも決まった。

これで全て解決だ。

私は深々と頭を下げて生協を後にし、車を停めていたパーキングに戻った。

そこで異変に気付く。

リアルマネーがないのである。

そのパーキングは支払い手段としては硬貨か紙幣しか使えなかったが、当時全ての支払いをauウォレットなるプリペイド式の決済手段で何とかしていたため、駐車場から出られなくなってしまったのである。

パーキングにあった電話番号にかけてみたが一向に出る気配はない。

どうするか考えていたら目に付いたのが駅前で暇を持て余してるタクシーの運転手だった。

「すいません、今お金持ってないの忘れててそこのパーキングから出られなくなってしまったんですけど、400円貸してもらえませんか?」

と優しそうな60くらいのおっちゃんに突撃してみるとその額の少なさ故か一人目で成功。

「ありがとうございます、またここ来るんでそのときに返します!」

と言い残すと、私はパーキングを無事脱出した。

後日。再び事務的な手続きのため生協に訪れた際に同じパーキングに停め、真っ先にタクシー乗り場の方を見た。

名前は覚えているからあのときの運転手が居なければ他の運転手に渡してもらおうと思っていたが、その人はいた。

「こんにちは、こないだ400円貸してもらってありがとうございました、助かりました」

と話しかけるとおじさんは驚いた様子で

「返さなくて良かったのに」

とニコニコで受け取ってくれた。

私は借りた金は必ず返す主義なので、こちらとしては大仕事を終えたような何故か誇らしげな心情だった。

余談だが、大分県の先輩に10万円を返したのは1年半後のことだった。その先輩は過去に医療費として必要だからと言われ10万円を知り合いに貸して返ってこなかった過去があったらしく、私から一括で10万円が返ってきたことはきっと嬉しかったのではないかと勝手に思っている。

貸して返ってくるだけで嬉しい金。

ならばたくさん借りた方が返した数だけ人を喜ばせることができる分豊かな人生になるに違いない。

借金したことない人も是非この機会にパチンコで散財して金を借りてみてはいかがだろうか。

レッツ、ギャンボー。

知らないタクシーの運転手からパーキング代を借りた話①

みなさんもパチンコで金が無くなって車検代が払えない!という状況に陥ったことがあるだろう。

意外に思われるかもしれないが私とて例外ではない。

今回は車検代が払えなくなったことに起因して、何故か知らないタクシーの運転手からパーキング代を借りるはめになってしまった話をしようと思う。

3年前の8月。

私は8年働いた大分の職場を辞め、無職のまま福岡は北九州に引っ越した。

辞めた理由は「過酷な仕事だしどうせ続ける気がないからそろそろ辞めるか」くらいのフワフワした理由で、北九州に引っ越した理由は「何となく」だった。

実家は熊本だったが、30歳にもなった男が今さら実家に帰るのはキモいだろという気持ちがあったため、九州の中で住むとしたら福岡だなという先入観のもとスマホでテキトーに物件を探した結果、北九州にちょうどよさげなところがあったため、そこに住むことになった。

北九州に引っ越してからは、まだ債務整理の支払い月々39000円があと1年残っているというのにパチンコ三昧だった。まさにTHEクズである。

そんな背景もあって、一瞬で社会という名の強制収容所に逆戻りかと思われたが、越してきた8月と翌月の9月は初代北斗無双で5万発を2回、慶次漆黒で5万発を1回と凄まじい豪運を奮うなどして何故か収支は30万以上プラス。

何故か無職をキープすることが出来ていた。

「まだまだ働かなくても良さそうだなグフフ、さぁ寿司でも行くか、サンキュー慶次!修羅の果てまーでもー♪」といった具合でスギちゃんの次にワイルドに生きていた俺に転機が訪れたのは10月の末だった。

そう、5日で50万負けた伝説の事件が起きたのである。

2000ハマり

ショボ連

単発地獄

となりの奴はオスイチ、爆連

エヴァンゲリオンが日本中の電力を集めて撃った陽電子砲でラミエルを撃破したように、私は財布中の諭吉を集めて打った初代北斗無双で人生を破壊してしまったのである。

つづく